私はホテルの案内係りです。あるお客様は年間10回以上宿泊なさる常連様。ジャズ好き、しかもビッグバンドであれば更に良し。来館すると先ず、ジャズをやっている所を尋ねてきます。ブルーノートやコットンクラブなどが主でしたが、できればビッグバンドをお勧めしたいのですが、日程が微妙に合いませんでした。カウントベイシーはよく聞かれる代表でした。まさに、何十年目に遭遇したハレー彗星のような気持ちです。今回はまさにビッタシ。
昨秋地元平塚のタウン誌に「カウント・ベイシー・オーケストラ・ジャズ・クリニック、参加者募集」という告知が載りました。眼はくぎ付けになり心臓の鼓動は高まる。現役メンバーから直接指導をしてもらえるというのです。しかも本番前には事前練習の機会も与えてくれるという周到さ。まさに100年に一度のチャンス!
ギターは30有余年弾いているのですが、基本はブルースでビッグバンドへの参加経験はおろか、高度なジャズ・ギターには手を出せずにいました。
但し聴く方は大好きで、とりわけリズム・ギターの神様フレディ・グリーンは最も尊敬しているジャズマンの一人でありました。
というわけでここは一念発起、無謀と知りながら応募のメールを出したのです。
その後課題曲が「エイプリル・イン・パリ」と「ファン・タイム」に決定したという連絡があり、以来CDを聴きながら必死の練習です。
そして昨年末参加者全員が集まりはじめての練習がありました。譜面が配られたあとパートごとに音合わせがありもう合奏。ついてゆくので必死でしたが、なんとか弾き通すことができ最高の気分を味わいました。
本番までにはまだ2回合同練習がありますが、自宅でもギターを離さずにいます。
フレディに会えなかったのは残念ですが、現ギタリストのウイル・マシューズになにを話そうかわくわくどきどきの毎日です。
ライブの後はパーティーもあるそうでそちらも楽しみ。
人生で最高スインギーな今年の冬です。
また、来てくれてありがとう!!
ベイシーの演奏に憧れて1970年にwasedaのHigh society orch.に入り、73年頃、ベイシーが盟友フレディーグリーンと共に、ソニーペインを連れての日本公演。素晴らしいステージと感動が今でも脳裏から離れません。聴く人を楽しませ、おっとりさせ、驚かせ、感動させる・・・シンプルで最高。絶妙なアンサンブル・・・至福の音の泉です。2月10日の公演にOBでこぞって楽しみに行きます。今から、ワクワク、どきどきです。
僕が始めて生でベイシーサウンドを耳にしたのは今から約12年前、赤坂のサントリーホールに来日ツアーで演奏された時でした。
当時のコンダクターはグローバ・ミッチェル氏でメンバーには「これぞビックバンドのドラム!!」のブッチ・マイルスやマーシャール・ロイヤルのごとく艶やかで張りのあるアルトの名手ジョン・ケルソンがいた時です。
その頃、僕はまだ貧乏学生で一番お得なバックヤード席で聴いていました。
しかし、その演奏の迫力の凄い事なんの!!
ブラスのベルは正面を向いて演奏しているのに後部席に座っている僕にまで音が跳んでくるんです。
つまり芯のある音で吹いているから反響して返ってくるんでしょうね。
それ以来僕はベイシーサウンドの虜です。
今では社会人となりお財布に余裕もあるので可能な限り足を運んで聴きに行ってます。
ちゃんと最高ランクの席です!
私が小学生だった頃、当時大学生であった一番上の兄は、日曜日になるとジャズを聴いていた。誰の曲だとか誰が演奏しているとかはよくは知らなかったが、兄はルイ・アームストロングのレコードを持っていた。私はトランペットやピアノの軽快なテンポの音楽を演奏するのがジャズなのかと理解していた。
その後、すぐ上の兄は長兄の影響でジャズが好きになりカウント・ベイシーをよく聴くようになったようだ。クラリネットやテナーサックスを吹き,バンド仲間と演奏を楽しんでいる。ジャズを聴くこと,演奏することが趣味である。
私は,大人になってから、クラシックとくにオーケストラが演奏する交響曲に興味を持つようになっていたので、自分でジャズを聴くことはなかった。
近々サントリーホールでカウント・ベイシーのコンサートがあるということを兄に話したら,二つ返事で行くという。私も聴きに行く予定だ。カウント・ベイシー楽団は大編成なのでダイナミックな音楽を期待している。今からコンサートが楽しみだ。
50年前の学生時代、ビッグバンドを組んで、朝から晩までベイシーナンバーに挑戦していた。大学卒業でバラバラになったメンバーと40年後の還暦の時、ロングアイランドのベイシーの墓参りに行き、墓前でバンド再編を誓った。そして昨年、メンバーの会社定年を期にビッグバンドを再編、再びベイシー・ナンバーへの挑戦を再開、ベイシーへの挑戦は50年になった。まだまだ続けたい。
20年程前、大学のBIGBANDでトランペットを吹いておりました。
その当時、どこの学バンもベイシーのナンバーが最も演奏されており、私もミディアムテンポの曲が大好きでした。
特にTP:ソニー・コーンのあの独特のノリのソロに惹かれ、盛んにコピーをして練習に励んでいました。
当時カセットテープで相当聞きまくり、そして相当練習しましたが、いくらやってもあの味わいは出せませんでしたね。
20年以上経った今でも、時々ソニー・コーンのソロが頭の中で奏でられています。
いつのコンサートだったか忘れましたが、こんなことがありました。ギターのフレディー・グリーンは、ソロを弾かないことでも有名でしたが、フレディー・グリーンとピアノトリオだけの曲があり、ベイシーはベース、ドラムと示し合わせて、最後の2小節を演奏するのを止めてしまいました。必然的にフレディー・グリーンだけが残り、例のフレーズを弾くことになったのですが、フレディー・グリーンは何事が起こったの理解できない様子できょとんとしていたのですが、ベイシーは驚いた様子で、いつもより少し大げさにソリストを紹介しました。「フレディー・グリーン」
ベイシーにすっかり嵌められたことを悟ったフレディー・グリーンは、困ったような顔で立ち上がり、客に向かって一礼し、観客はフレディー・グリーンの短いソロに盛大な拍手を贈りました。
ベイシーのコンサートは本当に楽しかったので、私はベイシーのコンサートがいつまでも終わらないことを願うようになり、必然的に「ワン・オクロック・ジャンプ」は聞きたくない曲になりました。何故ならそれは決まってコンサートの最後の方で演奏される曲だったから・・・・
カウント・ベイシーと出会って3年目。クラシックピアノをずっとやっていた自分は、ピアノの可能性をソロに見出していた。
ベイシーのピアノとビッグバンドに出会って、まずそれが崩れた。
ベイシーの音がまるでバンド全体を操っているかのようにたったの一音でどんどん曲が展開している。
派手な技術で魅せるのではない。バンドの音をまるで楽しんでいるかのようなベイシーのピアノと笑顔は、自分のピアノや音楽に対する考え方を変えてくれた。
その後大学でビッグバンドを続け、常に音楽の楽しさを追い求めていった。
ベイシーの存在がなければ、今のビッグバンドのメンバーとも出会えていないと思うと、不思議な感覚がする。
高校生でJazzをはじめたばかりの秋の日、バンドでやっているBasieさんが来日する!と聞き、バイト代をはたいて東京ツアーの『おっかけ』をしました。
人見記念講堂ではなんとかぶりつきの席に座ることができ、マイクを通さない生のBasieさんの声を聴くことが出来ました。
その頃はお体を悪くされていて電動車いすでの移動でしたが、ステージ上で車椅子につけたおもちゃのラッパを パッパー!とお茶目に鳴らしたり(笑)
フレディーグリーン氏とのオーバーアクションなやりとり等など…初めて目にするショウビジネスの世界に圧倒されました。
なかでも忘れられないのがお客さんの拍手に応えて、ピアノに手を突いて立ち上がり会釈をするお姿。
立位が大変なのでしょうに中腰で、でも笑顔で客席に向かってくださった誠意に胸が熱くなりました。
そのあと演奏のApril In Paris はもうトリハダものでした。
Basieさんにはもうお会いできないけれど、意志をついでバンドは存続されています。毎年かならず2公演はかけつけています。いつまでも世界中のファンのためにBasie Orch.の真髄を聴かせてください。わたしもおばあちゃんになっても必ず毎年行きます!
Let's Try One More Once!!
ベイシーを知ったのは1978年頃、オーレックスのオーディオのコマーシャルです。当時テレビコマーシャルで、「ワン・オクロック・ジャンプ」をベイシーのピアノからさびにかけて、ワンコーラス流していました。それまでも雑誌などでベイシーの名前は知っていましたが、その頃私は、グレン・ミラーやベニー・グッドマンにはまっており、黒人のジャズはちょっと難しそうで避けていました。しかしこのコマーシャルをきっかけに、早速FM東京をエアー・チェックしたり、人見記念講堂でのコンサートに出かけたりして、それ以来30年以上もベイシー・ファンを続けています。
当時から、PA無しのプレミアムコンサートは行われていましたね。この、PA無しのサウンドには心を打たれたものです。初めは音が小さくて全然聞こえなかったのですが、自然と耳が慣れてきて、不思議と聞こえてくるんですよ。ハーモニージャパンさんには、是非この企画は続けていっていただきたいです。そして忘れられないベイシーのピアノとフレディー・グリーンのギター。ベイシーが次に何の曲をやるか、ピアノで引いて伝えていたのが印象的でした。フレディー・グリーンの生ギターの力強いリズム。ベイシーのピアノのフレーズ、フレディー・グリーンの生ギターのリズム。この2つは当時を再現してもらいたいものです。コピーでいいじゃないですか。ミュージシャンのプライドというものもあるでしょうが、ピアノとギターはベイシー・オーケストラの要ですから。是非ともよろしくお願いします。
これまでにもラテン、ハワイアン、ビッグバンドから少人数のジャズと、いろいろなジャンルの音楽を聴きまくってきましたが、行き着くところがベイシー・サウンドだったのです。まだまだ新しい発見があるとは思いますが、おそらく私の中でベイシーを越えるものは現れないでしょう。
死ぬまで、いやこの世を去ってからも永遠にベイシー・サウンドを愛し続けてゆくことでしょう。
小さいころから、家ではカウント・ベイシー・オーケストラの音楽が流れていて、
物心ついた時にはベイシーが好きでした。父の影響もあり、
ジャズの魅力に取りつかれて、 プロのドラマーとしての道を志した時期もありました。
(俳優・高嶋政伸)
ビッグバンドを構成して(30年前か)間もなく、敬愛するベイシー楽団の演奏会があり、演奏会当日、
ある人の紹介で楽屋まで行かせて頂き、「ベイシーと二人だけ」の写真(額に入れる大きさ)を撮ってもらった。
幸いに次の年にも演奏会があり、また楽屋で、その写真に、ベイシー直筆のサインをして頂いた。サインをした後”二カー”と笑った顔が今でも忘れられない。
このサイン入り写真は私の宝物です。
私は第2回の来日からずっとベイシー楽団のライブに必ず出かけている。
その理由はベイシー楽団を聞くのも好きだが、それ以上に楽しそうに演奏するベイシー御大を始めとするベイシー楽団のメンバーを見るのが好きだからで、いつの日か「そんなに楽しいならリハーサルでいいから、私にも1曲吹かしてください。」と頼みたかったが、私の願いもむなしくベイシー御大は死んでしまった。
その楽しいはずのベイシー楽団が、楽しそうに見えなかったときが一度だけあって、それは1983年の8度目の来日のときだが、
ベイシー御大は、ステージで電動車イスを乗り回しはしゃいでいたが、他のメンバーは前年の7回の来日のときと比べると一遍に10歳くらい年をとったかのように見え、頭髪は白くなり、動きも緩慢で、いつも元気なケニー・ヒングまでが、ソロに立つのも億劫そうに見えた。
私は、あまりのことに驚ろいてしまって、演奏を楽しむこともできなかったが、
後から思えば、ベイシー御大の健康状態の悪化を、他のメンバーが心配したからにほかならず、
案の定2年後にベイシー御大は死んでしまい、83年が最後の来日となったわけです。
逆にいえば、ベイシー楽団のメンバーが、深くベイシー敬愛し、
ベイシーと一緒にプレーできることを無上の喜びとしていたかを示すエピソードのように思われ、
そのことを思うと、今でも胸のふさがる思いだが、これはあまり語られることがないので一言。
戦後ラジオから流れてきたジャズに感動してギターを始めました。
ベイシー本人の奏でるピアノやオリジナル・メンバーの演奏を何度も体感しましたよ。
その感動と思い入れは、今も心の奥深くに宿っています。
2010年は、バンド結成75周年ですか・・・。
また聴きたいね、「エイプリル・イン・パリ」でいつもやる”ワン・モア・タイム!”をね!!
(俳優・高島忠夫)
2010年「世界で最もスイングするビッグバンド」
カウント・ベイシー・オーケストラの待望の来日が決定!!
公演に先立ち、あなたの“ベイシー話”を募集します。
あなたが感じるカウント・ベイシー・オーケストラの魅力、
ファンになったきっかけ、コンサートの思い出、思い出の一曲、
カウント・ベイシー・オーケストラで人生が変わった、
あの日あの時ベイシーが流れていた・・・
カウント・ベイシー・オーケストラをあなたの言葉で
ご自由に語っていただければと思います。
結成75周年記念を迎えるカウント・ベイシー・オーケストラへの期待や
メンバーの皆様に尋ねたい質問なども、お待ちしております。
募集期間:「カウント・ベイシー・オーケストラと私」の受付は終了いたしました。
たくさんのご応募、誠にありがとうございました。
ご応募下さった方々の中から、抽選でオリジナルグッズを10名様へプレゼント!
(当選者には、メールにてご連絡申し上げます。)
※画像はイメージです。実際の商品とは異なります。
皆様からいただいた文章の中から選りすぐりのお話を、
このサイト上でご紹介させていただきます。